スキート射撃の歴史
スキート射撃の歴史は、トラップ射撃に比べれば浅いものですが、面白く工夫された合理的な種目だと思います。
スキート射撃は、1915年にチャールズE. Daviesによって発明されました。
最初は、Clock Shootingという呼び名からはじまって、1923年までに現在のような形式に発展してきました。
以下で、英文ですが、スキートの歴史が書かれています。
1926年に名前を公募で募集し、スカンジナビア語の「shoot」という言葉から「skeet」と名付けられました。
その後、第二次世界大戦中、爆撃機の射撃手への訓練用に、アメリカの軍隊でスキート射撃が活用されるようになったという話はあまり有名ではないようですが、非常に合理的な訓練方法だったと思います。
クレーは、ハイハウスとローハウスと呼ばれる2箇所の放出機から放出されますが、日本ではハイハウスを「プール(pull)」、ローハウスを「マーク(mark)」と呼ぶことがあります。
ハイハウスを「プール(pull)」、ローハウスを「マーク(mark)」と呼ぶのは、確かに日本ぐらいでしょうか。
ルールブックを見ても、ハイハウス、ローハウスと表現されていて、「プール(pull)」とか「マーク(mark)」とは書かれていません。
これは、各々の放出機をハウス内で人が操作していた時代に、射手のコールがどちらの放出機に対してなされているかがわからなくなるために、射手がコールを分けていたためです。
すなわち、ハイハウスからのクレー放出を要求する場合のコールが「プールあるいはプル(pull)」であり、ローハウスからのクレー放出を要求する場合のコールが「マーク(mark)」だったということです。
では、現在のダブルへのコールはどうだったのかとなりますが、当初の射撃にはダブルがありませんでした。
Clock Shootingがスキート射撃のはじまりであり、地面に半径25ヤードに円を描き、時計の文字盤のように区画したのが原型です。
放出機は12時の位置に置かれ、クレーは6時の上空を通過するようにセットされていました。
射撃は1時から12時の位置に配置した12個の各ステーションから2発づつ撃ちました。
最後に1発、円の中心部に立って撃ったので、これで25発となります。
その後、安全性の面から現在の半円型の射面へと変化し、ダブル射撃などルール上の改正が重ねられて現在のようになっているのです。
スキート射撃については、いろいろなWebページを見ても、概ね同様の説明がなされていますが、「鳥撃ちの練習のため」に発明されたという点を見逃したくはないですね。
日本のスキート射撃は、国際的な射撃と比較した場合、携帯電話と同じくガラパゴス化しているかも知れません。
ジャパンルールなどは、その一例でしょうか。
さらに、スコアカードでも、ハイハウスを「P」、ローハウス「M」と表記するだけでなく、ダブルを「W」と表記します。
ダブルのスペルは、「Double」なので、略すなら「D」とすべきです。
日本らしいと言えばそれまでですが、国際的な視点から見れば、少々恥ずかしいかも知れません。
さらに、ガラパゴス化している例とすれば、7番射台から出る際の回り方が挙げられるでしょう。
ワールドカップなどの動画を見れば、7番射台から出る際には左回りです。
これを日本の技能講習では、右回りと教えています。
もちろん8番射台でハイハウスを撃った後、ローハウス側を向く際には「右回り」です。
これをすべての射台に当てはめるというとんでもないことを決めたのは、スキートを撃ったことのない方なのでしょう(どなたか知っていますが、名前は伏せておきます)。
射台から出る際に限らず、銃口が人の方向を向かないようにするのが、射撃の基本です。
7番射台から出る時に注意しなければならないのは、次番射手です。
右回りで射台を出ようとすると、次番射手に銃口が向く可能性があります。
プーラー室の位置などは射撃場ごとに異なりますので、意識すべきは次番射手です。
まだ、日本の射撃のガラパゴス化の例はあります。
日本クレー射撃協会に所属し、公式戦に出場している射手ならば、射順を待つ間、銃を肩に掛けるようにすることが多いです。
もちろん、銃口は身体の前方に向いていますが、これを技能講習では、ダメだと言っています。
公安委員会から出ている技能講習に関するどの文章を見ても、一行も書いてありませんが、射場協が作成した実施要項で禁じています。
結果、公式戦以外の試合中に、銃を肩に乗せようものなら、鬼の首を取ったかのように、注意してくる射撃指導員がいます。
「無知の知」は、ソクラテスが一生を通し、生き方について追及した結果、そこから生まれた言葉です。
「無知の知」は自分に知識がないことを自覚するという概念です。
「自分に知識がないことに気づいた者は、それに気づかない者よりも賢い」ということを意味しています。